3回続けて保革激突
 戦後、初めて選挙で知事を選んだ一九四七年四月の知事選には六人が立候補した。社会党の県議や衆院議員を務めた同党公認の林虎雄氏と、官選の元知事の物部薫郎氏の事実上の一騎打ち。社会党に共産党などを加えた革新団体が林氏を推薦。自由党、民主党の保守陣営は物部氏を推薦した。林氏は「地方自治を県民の手に」と主張。「県民の林か、官僚の物部か」のスローガンも浸透し、物部氏に十万九千票余の差をつけて初当選した。このとき、林氏を含め全国で四人の社会党知事が生まれた。

 林氏の二期目(一九五一年)は、前回選で林氏を支持した農協陣営から県信連会長の米倉竜也氏が立候補した。当初、共産党にも擁立の動きがあったが、結果的には前回同様、革新系は林氏で一本化された。保守陣営は米倉氏でまとまったが、出遅れが響き及ばなかった。同年九月に社会党は分裂、林氏は右派社会党に所属した。

 一九五五年も林氏と保守統一候補の稲垣征夫氏の一騎打ちになったが、林氏が大差で三選を果たした。右派社会党は林氏を公認。左派社会党は独自候補擁立も探ったが候補者がなく、革新陣営は林氏に一本化した。同年十月に社会党が統一、十一月に自民党が結成され、五五年体制が成立した。林氏は「知事は三期が限度。それ以上やると組織の活力が失われる」として、三期で引退した。


出典 信毎 https://www.shinmai.co.jp/feature/senkyo/2000chiji/kiseki.htm